国際言語学者の溝江達英です。
仏教では自分は空であることを説いています。空とは何か?ですが、これは自分を滅することです。自分が無色透明の存在でありかつ(=無我)、世の中の全ては縁起で成り立っているというのです。縁起は英語ではco-arising と訳されています。これだけだとわかりにくいので一つ、例を出してみます。
自分が食べたいと思うものは自分で決めているようで実は何かに決められていると考えてみましょう。えっ、そう考えること自体変じゃないですか?と反論がありそうですが、少し我慢してお付き合いください。
ハンバーガーを食べたいと思った自分がいる仮定しましょう。
ハンバーガーは平安時代におそらくなかっただろうと考えると、今、ここでハンバーガーを食べることができる自分は、今の時代に生きているおかげで、ハンバーガーを食べることができる幸運を享受できるのですから、自分が決めているようでありながらも、実は時代によって食べるものが決められていると考えることもできるわけです。平成に生まれていなければ将来はYoutuberになると夢見ることもできないわけですから、自分の意思決定は自分が生まれた時代に決められているという考え方があるのです。過労死も平安時代にあったかどうかは分かりませんが、時代の病はその時代に生まれていなければなかったのかもしれません。
自分のやることなすことのすべてが自己意思で判断されているようで実は決められているという考え方だから、自分があるようでない空(くう)であるという考え方が生まれるのです。
冗談じゃないよ!と思った人もいるかと思います。ここからが大事な問いです。これが正しいと自分が思えなければ思わなくてもよく、ああ一理あるなと思えば参考にすればいいわけで、いや!この考え方が正しいと押し付けると戦争になってしまいます。
ですのでこれから話すお話も自分の尺度で受け入れられれば受け入れ、そうでなければ採用しないでください。答えを一つにすると苦しみが生まれますので。ある意味、どっちでもいい、どれでもいいと考えられる器量を持つと世の中楽に生きられるのではないかと(あくまで私は個人的に)思っています。
英語の達人の列伝を仕事柄よく目にすることがあります。最近の話題はもっぱら、生身のネイティブ講師がいいか。それともAIによる言語学習がいいか。こういう議論が白熱しています。私が一理あるなと思ったことをお話しますが、採用するのは皆さんに委ねます。
英語の授業に英会話はいらないという議論が長年あるのです。いまだに解決していない論争で、一番古いもので平泉・渡部論争というのがあります。興味のある方はググってみるといいでしょう。今回は更に最新のお話をします。
英語の授業は知識吸収の場でありかつ、英会話の準備の場であるから、英語の本番は別な場所(英語の授業以外で)でやれという議論です。そもそも授業を教える英語の先生に英語を話すという場面よりも、英語の先生じゃ無い人と話していくのが本番(=例えば会社の同僚と英語で話すことが本番)なのだから、英会話の本番は教室以外でしょ。という理屈です。じゃあ、準備(=素振り)の場をAIにまかせてしまえばいいのではないかという考え方があるのです。
AIを英語学習に取り込むことで、英語の間違いを、何度も何度も、飽きることなく、機械は直してくれるからAIは英会話練習に最適であるという主張です。同じミスを1回、2回くらいなら生身の先生も直しますが、何度も何度も間違えてくると先生も疲れてきていいかげん直さなくなります。AIなら感情に左右されないので統計とデータでいい意味で冷徹に修正してくれます。練習は機械とやっても十分英語は伸びるという考え方があるのです。もちろん英語を習うのは生身の先生でネイティブスピーカーが一番という人も世の中にいるでしょう。でも、その答えを一つに決めてしまうことで苦しんでしまうこともあったりします。AIで勉強するという選択肢が一つ増えるだけで英会話=留学という呪縛から外れて、苦しみが減るかも知れません。
私達には刷り込みが多く、信じているものが唯一の正解だと思いこんでしまいます。
英語の学び方はいろいろあってよくて、アプリ学習もしかり、生身の先生との学習もしかり、AIによる置き換え練習でもいいと思うのです。
語学学習につきまとうのは、勉強を一人ですることの辛さです。ここが実は最大の難所となってくるのだと思います。話はズレますが先日、オンラインカジノだけで生活している人(しかもそれだけで億万長者)に会いましたが、その方が言っていたのは自分ひとりで賭けると負ける。友達と時間を決めて、集団でやるとみんなWin-Winになると言っていたのが印象的でした。勉強も同じじゃないかなとおもうのです。
どんな勉強法でも構わないので、なるべくなら間をおかず、一定のリズムで集団で勉強するのがいいと私は個人的に思っています。一人で何かに打ち込むことは美しいのですが、意地になってしまうことで答えを一つにしてしまいがちになります。楽しみながら集団で事を成す喜びに触れてみると視界が広がりますのでおすすめです。
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