国際言語学者の溝江達英です。
ある作家の言葉だったかと思います。
花に名前がついているがゆえ、その花の名前のせいで、花をじっくり見なくなるものだと。
名も無き花の方が花自体として興味が持てるというのです。
換言すれば、人はレッテルがついてしまうと、何かと分かった気になってしまうことを警告しています。野原の花も、人は【あれはチューリップだ】と名前を認識するだけで、その認識=表面上の理解と自動的に判断し、名前のせいでどんどん創造性が奪われていくというのです。
定規を定規と呼んでしまえば、そこからはただひたすら線を引く物という考え方が第一義に浮かび、発展してそれ以上の用途が思いつかないのに似ています。定規はともすれば孫の手のように背中を掻くことに使えるかもしれません。
名前が言葉のあらゆる潜在的な多岐に渡る用途の可能性を窒息させてしまう毒物だと言う人もいれば
言葉の牢屋という人さえいるのです。
私たちはいろいろな名前に束縛されています。
電話=相手と会話するという一義的な意味の呪縛を解いたのがスマートフォンの発展です。仮想通貨もお金の常識を覆しています。私は語学にも名前のせいで苦しみが勝手に想像されているのではないかと思っています。
語学は文字のごとく【語を学ぶ】ですが、学ぶという言葉そのものの呪縛で、難しいものと考える人が多いようです。ただ、世の中には人が痛みに感じることを喜びと思う人がいて、ひょっとして語学好きな私は人が苦労して学ぶものを好き好んで行う変な人なのかもしれません。それを差し引いたとしても、世の中で難しいと言われていることが、実際やってみたら実は大したことがないということが往々にしてあります。
例えば受験です。東大に入ることを想定すると、東大=日本の最高学府=入るのが難しいという連想が働くでしょう。いわゆる一義的な脊髄反射です。
それはもちろん間違ってはいませんが、その一義的脊髄反射にやられて、それ以上何も考えない状態になってしまう=チャレンジを諦めてしまう。この連鎖がもったいないのです。
大学院の社会人入試というのをご存知でしょうか。どの学部を出ていようが、大学院には社会人入試という門戸があり、語学ができればかなりの合格率を叩き出せます。語学は社会人入試では外せないもので、ある意味、言い方は乱暴ですが語学ができれば合格するチャンスが段違いで高確率になるのです。ある意味、語弊を恐れずに言えば、苦労して入った学士入学より、東大の大学院の方が入りやすいのです。
東大合格=難しいという、ある意味一つしかない自分の脊髄反射から距離をおいてみると、社会人入試みたいな選択肢が出てくるわけです。
東大合格=〇〇
と言った具合で、今まで等式を結んでいた部分に、あえて【名前をつけない】ことで、可能性の幅を広げてみます。
語学=〇〇
このように捉えてみると
語学=海外旅行で話せればいい的なレベルと発想を越えて、自分のキャリアアップ、ひいては東大に入れる武器に変えてしまえるのです。
クレジットカードもそうです。ただキャッシュレスの決済というだけの使い方ではなく、生命保険の役割さえします。また、ポイントをためることでビジネスクラスに乗れます。
今まで一つしか解答を与えてこなかったものの呪縛から離れられると、挑戦できる自分に大変身を遂げることになります。
答えなき人生を歩むのはある意味怖さがありますが、正解がないと考える力こそ生きる力であり、それでこそ絶えず思考する頭が形成され、他人が思いつかないようなことがイノベーションを生み、それが顧客創造につながると考えれば、ビジネスマインドとしては心得ておかなければいけない重要基軸と考えます。
自分=〇〇
こうして時に、自分をリセットしてみることをオススメします。
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